鬼火の故郷

忘れ難いというのは、忘れてもいいのに、差し障りのない、しかし、忘れられずに生涯気に掛かる人やもののことに違いありません。

桃園の大渓地埔頂庄という村で、一族の会議の場で、兄弟同士とその息子たちが集まり、

「宜蘭に移すのはどうだい?」

「向こうではススキも生い茂ってるし、火起こしが便利で、よし!」

ススキの誘いに応えるかのように、より良い暮らしを求め、一族のうち一部の人が宜蘭へと目指しました。それは、母が祖父から聞いた一族のルーツの話です。順太の祖父、張契が満3歳の年に、新たな統治者の登場でこの台湾の島で日の丸の旗が掲揚されるようになりました。彼の生まれた土地は当時、日本側によって付けられた地名が「桃園庁桃澗堡南興庄」で、地元では「社角」といいます。

専門家曰く、台湾の地名に「社頭」、そして私の故郷の雲林県荊桐郷「番仔庄」のように、「社」や「番」という字が入っていれば、その土地は昔、先住民族平埔族の集落だったことはほぼ間違いありません。順太の本籍が「番社」のとある一角ということから、一族は元は平埔族で、のちに漢族に同化したと推知できるでしょう。

祖父が6才の時、曾祖父張石富は戸籍を高祖父張天枋のところから、大渓町仔と大漢渓により近い埔頂庄林厝角に移しました。祖父が13才の年の冬、曾祖父は数人の従兄弟と東へと住まいを移しました。当時、祖父は蓑で編んだ天面付きの皆の下駄を担ぎ、そして、洪水に流され亡くなった母親の唯一見つかった亡骸の大腿骨を背負い、転居地宜蘭で葬ろうとしました。

母親の知る限りでは、一行は「数日間も歩き続け」ようやく叭哩沙(現在の三星郷)の紅柴林に辿り着き、そこで居を構えるようになりました。その移動の経路など、一切知る余地がありませんでした。宜蘭の三星郷と桃園の大渓鎮を結ぶ直線距離ならさほど離れてはいないが、台北の烏来郷から宜蘭の大同郷へと横断する道のりは先住民泰雅族の居住エリアが広がり、高低差の激しい500~1000メートルの山続きです。それでも、険しい道のりは一行の足を止めさせるには及ばず、それより恐ろしいものは「藩害」です。

「藩害」というのは時の日本政府が先住民の首狩りを指す言葉で、日本統治時代の初期頃、現在の三星郷の域内にある高い山に最も近い天送埤、乃至少し遠く離れた破布烏、阿里史、紅柴林あたりでは「藩害」が絶えずに起きていました。それ故、平埔族(熟藩とも呼ばれている)や漢人が昼間に護身用の刃物などを肌身離さず田畑で仕事をしたり、見張りが常に田畑の入り口の所に立っていたりしていました。油断すると、首無しの死体が田畑に晒される惨劇がとっさにやってきます。まるで足のない霊体が目に前に迫ってきたかのように。