命名のことについて、母親は全く関与する余地がありません。父親から相談されることはまずなく、劣等感を抱える彼女も自ら口を出すことはありません。

父親は、若い頃に「尊敬」する人物がいたと言いました。その方は、山間部の南投出身の台湾大学法律学科卒の秀才であり、1950年代に外交官試験に合格した際に、地元では爆竹を鳴らして祝うことが新聞記事になったそうです。単に「尊敬」というより、その方は父親にとって「憧れ」と「羨望」の存在というほうが相応しいでしょう。

偶然にも、間もなく外交部でお務めのその若き外交官は台湾大学近くで部屋を借り、大家さんは父親の日本海軍少年工時代の仲間でした。大志を抱き、人生を切り拓くために勉学に励む父親に、大家さんがその方を紹介し、試験勉強のコツを対面で伝授してもらいました。小さな部屋で直接会ったことから、父親のその方を慕う気持ちが強くなり、アイドル同然の当人を「人格者」だと評価しました。

その後、アイドルの後を追い、外交官試験に挑んた父親は敗北したが、目標を改めて弁護士試験を受けました。それでも、その若い外交官の父親の中における存在感はなんら変わりはありません。順泰の名前は父親のアイドルの「林順泰」にちなんで付けられ、アイドルへの忠誠の表れと言えるでしょう。勿論、そこにはいつか張家の「林順泰」になってほしいという息子の将来を期待する父親の願いも込められています。

それに比べて、2人の姉の名前の由来はしょぼかったです。上の姉が生まれる時、3番目のおばさんはまだ水頭の家に住んでおり、世話好きな彼女の性格は当時から変わっていません。「男の子でも、女の子でも、赤ちゃんのおんぶ紐と布団はすべて揃えてあげる」と言って、名前まで考えてくれました。男の子の場合は母親は忘れたが、女の子の場合は閑静な水頭で育まれた明珠という意味合いで「静珠」という名前を考えてくれました。

ところが、お爺さんが役所で出生届けを出した際に、「静」が「貞」に変えられてしまいました。当時の1950年代、権威ある役所の担当者の手落ちにより、台湾人の戸籍謄本には間違った名前が記入されることがしばしばありました。張家もそのような経験をしました。

2年後、下の姉が生まれた際、父親は命名について慌てませんでした。そして下の姉が1か月になった頃、お爺さんと家の前で遊んでいると、上の姉が顔を上げて木の上を指差し、「お爺ちゃん、お花」と言いました。それを聞いたお爺さんは、竹竿に刀を付け、花を採って喜ばせようとしました。すると、近くにいた母親が言いました。「お父さん、出生届けはまだ出していないけど、名前は何がいいと思う?」木を見つめながら考え込んだお爺さんはつぶやきました。「枝があれば花あり、花があれば枝あり、『枝花』はいい名前だね」学校に行ったことのない母親は、特に意見を持たず、その話が哲学的な意味を含んでいるように感じられたので、喜んでその名前を受け入れました。