順泰が使う水頭の部屋は年間を通じてヒノキの香りが漂います。枕元に近い壁際に置かれた紅檜(ベニヒ)が香りの源で、それはひつぎを作るために備えておいた材木です。ひつぎという言葉の方が分かりやすいですが、母親は縁起の悪い言葉を避けて「大寿」と言っています。

材木は数えてみると7枚あります。そのうち2枚は「天」と呼ばれる部分で、ひつぎの蓋として使用されます。4枚は「翼」と呼ばれ、ひつぎの側面を構成します。そして1枚は「地」として、ひつぎの底部分に使われます。この底部分にする材木は分厚く、さらに2つに裁断することができます。つまり、上質な紅檜の材木がひつぎ2つ分作るために家に備えていました。

このような家の「内装」は天送埤ではよく見かけるし、「うちの叔父さんの家にもひつぎを作るための紅檜の材木が備えられていた」と母親は話してくれました。

日本統治時代に、太平山から日本人が大量のヒノキを伐採しました。これらの木材は林務局の管轄する太平山林場によって松羅埤まで運ばれ、そこで水に浸されます。その後濁水渓(現蘭陽渓)を辿って羅東に到着します。後に清水湖に水力発電場を建設することが決定された際、発電所側と林場側は協議を行い、その結果、松羅埤の水を発電に利用する代わりに、木材を運ぶために発電場まで鉄道を敷設することに決めました。

こうして、松羅埤に浸されていたヒノキは時間と共に底に沈みました。一部の材木は水が枯渇し、そのまま眠り続けましたが、ある時、洪水によって一斉に浮かび上がり、流れに沿って下流へと漂流しました。この出来事は天送埤を大騒ぎにしました。人々は数丈もある貴重なヒノキの丸太を求めて争いながら駆けつけました。祖父は渓流の近くに住んでいたため、この神様からの贈り物を手に入れたのです。

あれから月日が経ち、年を重ねた祖父は手持ちの現金が少なくなり、ある日木材中間業者が家を訪れた際に、祖父は7枚のヒノキの材木を売却し、数千元を手に入れました。このように、かつてひつぎを作るために備えておいた材木がやむを得ず、老後の暮らしを支える資金へと変わったのです。