阿狗仔(台湾語の発音はアガウア)

阿狗仔がまだ9歳の頃、母親が蘭陽渓の渓流に流されました。それ以来、心がぽっかり空いた彼は、ガチョウのように、毎日、心の窓から首を長くして母親の帰宅を待っていました。

阿狗仔の父親はそんな思いはなく、妻が亡くなって間もなくして後妻を迎え、1年後に男の子を授かりました。こうして、阿狗仔は継母の連れ子の弟、腹違いの弟、そして父親と継母と一つ屋根の下で暮らすようになり、少々複雑な家族構成だが、80年前の蘭陽平原では決して珍しいことではありませんでした。少年の阿狗仔のように、継母から愛されない前妻の子どもの話は当時ゴロゴロありました。

順泰と70才年が離れている祖父が3歳の時、日本政府が清国から台湾を接取しました。当時日本軍が太平洋側の貢寮から上陸して台北城に入り、植民統治の幕開けとなりました。祖父は日清戦争の3年前に桃仔園(現在の桃園大渓)に生まれ、13才の時、父親が再婚して1か月後、継母と彼を携え、険しい山々を乗り越え、叭哩沙(現在の三星郷)に引っ越しました。当時、祖父は母親の唯一残った亡骸の大腿骨を担いで行きました。

阿狗仔はまるで疲れを知らないかのように、木に登ったり、弟の萬福と喧嘩したりします。そのせいか、継母からはいつも「まるで人を見ると吠える犬のようだ」と言われました。徐々にいつの間にか、家族からは台湾語で犬を意味する阿狗仔(台湾語の発音はアガウア)と呼ばれるようになり、親戚や近所の人もみんな彼の本名が「張契」であることを忘れ、彼のことを阿狗仔と呼ぶようになりました。周りからそう呼ばれると、彼も自身の名を生涯、阿狗仔と名乗り通しました。

17才のとある午後、じりじりと照り付ける太陽が容赦なくお腹に入った水っぽいお粥を蒸発させ、阿狗仔は腹ペコのお腹を撫でて、グーグーという音しか聞こえてきません。それ以上我慢できない彼は畑に飛び込んで、サツマイモ2本くらい掘り取りました。後でこのことが父親にバレて畑で追いかけられたら、そのまま彼は走って、蘭陽平原から金瓜石へとやってきました。

自立を望む一心の阿狗仔は、金瓜石でゴールドラッシュに加わって一攫千金を狙う話をずいぶん前から蘭陽渓の南側一帯当たりで噂で聞き、それで冒険心がくすぐられ続けてきました。金瓜石に来て、彼は自分の力で食べていく満足感を味わったものの、すぐには金持ちの社長にはなりませんでした。ですが、それにめげずにどうすればなれるかずっと気になっていたのです。

大抵、金瓜石の鉱山で仕事を差配するのは日本人で、日本人は勿論のこと、台湾人でも上の者なら日本語を話します。人生の暗いトンネルから光を見出そうと機転を働かせた17歳の阿狗仔は、1人のベテランの坑夫から片言の日本語を教わり、たった2、3日で、作業場のリーダーにお辞儀をして恐れずに日本語で「おはようございます」と挨拶できるようになりました。それも決まりが悪く、黙々と働いているほかの労働者の前で行った振る舞いです。

阿狗仔は、鉱山で飛び交っている日本語が気になって、聞き取れるようになりたくて、じっくりその内容を聞きます。分かるようで分からない日本語を心の中で繰り返すので、仕事仲間との口数がずいぶん減りました。

ある日、鉱山で作業中に1人の労働者がばったり倒れました。現場では大騒ぎになり、阿狗仔は周りに飛び交っている言葉の意味を必死に聞き取ろうとして、唯一聞き取れた「熱い」、「早く」、「病院」の片言の日本語で、相手の意図を汲み取って、とにかく「はい」と何度も頷き、慌ててバケツでタオルとお湯を運んできました。彼はそれから、一応現場では少々日本語が分かる労働者だといささか自負を持つようになったが、まだまだ一介の下働きの労働者です。何と言っても、金瓜石は他所の土地で、そこの冬の霧に郷愁をそそられ、阿狗仔は地元蘭陽に帰ることにしました。

凡そ十日余り経って、阿狗仔は庭付きの立派な門構えのある日本式の邸宅前にやってきました。入口付近の柱に木の板が掲げられ、そこに坂崎と書いてあります。表札に書いた文字の意味が分からないが、門の向こう側で自分を待っていることには待ちきれずにワクワクしています。日本人のお家で家事手伝いの雑役だが、暗闇の炭坑内での仕事よりはずっとましなのです。