母親が結婚して12日目の旧正月期間中に、張家に急変が訪れました。

私たちがハッカアニンお祖母さんと呼んでいるのは祖父が再婚した妻、新竹出身の客家人(ハッカアニン)です。母親が張家に嫁いで間もなく、この大家族に新たな女主人ができました。女主人というのは綺麗事で、新たな炊事の担い手を見つけ、一家は規則正しく三食を取ることができたというほうが相応しいでしょう。昔の台湾では、母親が再婚する際に、娘を連れてその再婚相手の息子と結婚させることがよく見られ、ハッカアニンお祖母さんが当時母娘で廖家に嫁いできました。しかし、その後、ハッカアニンお祖母さんが祖父と別居の決意を固め、私のおばさんに当たる1人目の娘と一緒に暮らそうと決めました。

大家族に訪れた急変は、財産の争いや恨みとは無縁でした。それは張家が大資産家でもなく、巨額の貯金でもなかったからかもしれません。当時の張家の分家を軍隊で例えるなら、駐屯地の一部の兵士がほかの駐屯地へ移転し、住まいが変わっただけの話でした。

まるでハッカアニンお祖母さんが花蓮への3日間旅行を支度するかのように、分家は波風も立たず穏やかでした。当日朝、ハッカアニンお祖母さんが「オス鶏とメス鶏は残してやります」と母親に別れを告げ、それ以外、何も言い残しませんでした。祖父はいつも通り、ベッドに座りタバコを吹かし、一度も顔を上げず、そして一言も言わずに、まるで何かに気を引かれたかのようにただ食い入るように地面に視線を向けたままのでした。

清明節のお墓参り。ハッカアニンお祖母さんが10才未満の6番目のおじさんと梅おばさんを連れてきました。雨がぱらぱらと降り、白い煙がゆっくりと上がり続け、数回目を合わせた祖父とハッカアニンお祖母さんは無言のまま、聞こえたのは子どものはしゃぎ声とそれを叱るおばさんの声だけでした。坂を下りようとした時、祖父がようやくハッカアニンお祖母さんに「水頭に戻ってこい!」と話しかけたら、「いや」ときっぱり跳ね返され、お爺さんはその場で泣き崩れ、そのままハッカアニンお祖母さんは身を翻し坂を下りていき、霧のかかった山の墓園を後にしました。

そして、旧暦の7月、祖父は20年前に水門で雑草を刈り取った際に日本兵の死体から拾ってきた日本刀を携え、最後の引き留めをしに行きました。しかし、毅然としたハッカアニンお祖母さんはあっさりと「戻ってほしいなら、私のひつぎを用意してきなさい」と言ったのです。あの日、結局水頭に戻ってきたのは祖父とあの黒鞘の日本刀だけでした。

祖父の悔しさとどうしようもなさに比べ、ハッカアニンお祖母さんは幼い子どもを食べさせる明確な目標を持ち、懸命に働きました。50才の彼女は強靭な体力を存分に発揮し、力仕事、お茶摘み、炊事のお手伝いなど自らの力で生計を立てていました。こうしたハッカアニンお祖母さんの生き様に母親は「悪くない」と言っています。