終戦の日、15才だった父親は横須賀港の日本海軍工場で少年工として働き、雷電戦闘機の製造に携わりました。

長年続いていた戦争で、日本の兵員死亡者が大勢いて、多くの日本家庭は若い男性の担い手を失い、父親のような若年男性は、戦後のあの時代では引っ張り凧でした。養子を迎える家、婿を取る家などある中で、日本に残った台湾人少年が少なからずいました。

一方の父親はどうでしょう?「俺は帰りたくて、おやじに会いたかった」父親はこう言いました。

祖父と父親の親子2人の間で温かい出来事なんて聞いたことは皆無に近く、それより喧嘩や衝突がしょっちゅうでした。驚いた私は口を開こうとする瞬間、父親は「あの頃は未熟で考えが浅かったなあ」と言い続けました。

つまり、当初、日本国民になって得られる実質的な利益のほうが、偶々込み上げた抽象的な親を懐かしく思う気持ちをずっと上回ったのです。

1年10か月の間、父親は日本に滞在していました。父親曰く、三星公学校の高本先生がある日、「宜蘭郡役所から通達が来ました。日本海軍は技術者になる人を募っているが、行きたい人いませんか?」とクラスに向かって聞きました。下の小学生はみんな反応なかったので、先生が名前を呼んで決めたのです。父親はその時、名前が呼ばれました。

その後、家に戻り祖父にそれを伝えた後、祖父は沈黙のままでした。「日本に行くというなら、おやじは大喜び。他の処なら、賛成しないし、南洋は病気になるから賛成も得られない」父親はこう言いました。

一行が船に乗って北へ行く日がやってきました。船で出発する前、先に列車で台湾を半分くらい回って高雄まで乗車し、岡山の海軍基地で10日間の基礎的軍事訓練と身体検査を受けました。「ガラスの棒で肛門に突っ込まれた」あの時、余りにもびっくりしたと父親は振り返りました。

クラスメートの多くは下痢をしたため、予定より5日遅れて埠頭に着いたところ、更に高雄港で2日間船を待っていました。父親の推測では、恐らく、当時東シナ海域を航行する船が頻繁に米軍の空襲に遭い、無数の船が撃沈されたせいで、軍艦が今の地下鉄のように、時間通りに出発するのは難しかったからでしょう。ようやく、待つ甲斐がありました。学徒兵の広島行きの航行は父親は「順風満帆」と総括しました。