水頭の住宅裏の坂にお爺さんの建てた便所があります。細い木の板で囲まれた空間はベトナム戦争の映画に出てくるような、米軍捕虜を収容する牢屋みたいで、外から光がふんだんに差し込みます。中では、地面に大きな穴が掘ってあり、その中に廃棄になった大きな水がめが埋められており、坂道なので、地面に木の板で「井」の形に敷いてあり、用を足すときにその「井」の上でしゃがみ姿勢で真ん中の「口」位置に合わせて不要なものを出します。一連の動作は漢字の「丼」によく似ています。

順泰はトイレする度に、「井」の中の自分の排泄物を覗き、グアバの種がはっきりと見えます。グアバを種ごと食べると甘くて消化によいと母親からよく言われているが、実はグアバの芯を捨てないで食べるのは倹約の山の人々のもったいない精神の表れでもあるのです。

細い木の板で作られた壁に斜めに刺されたあの日本刀。順泰はそれを初めて見たのはいつかもう覚えていません。それを触るなと母親から再三言われてはいるが、今度こそ、その黒鞘の日本刀をいじってみることにしました。少し体を前かがみして、右手を鞘の上に乗せて上から下へ滑らせて、そして左手を急降下する神風特攻隊に擬えて遊びます。

トイレの度に、あの日本刀をいじって遊ぶ順泰。まるでフェンスの外でわざと騒いで中にいる友人に窓を開けてもらう若者のように、結局直接ドアをノックする勇気がありません。厳しい母親がいるからです。あの邪悪なもの、絶対に鞘から刀を抜くなよと母親が再三警告したため、日本刀はがっちりと封されたかのようで、遊ぶと言っても順泰は黒鞘の部分に触るに留まります。母親曰く、鞘から刀を抜くと檻から猛虎を出すように恐ろしいです。特に2番目のおじさんがあの日本刀を持って行った時は酷かったのです。

順泰が生まれる前、母親が嫁いでくる以前からあの日本刀がこの家に存在しました。日本統治時代が終焉を迎える数年前、台風による嵐で山から大量の土砂とともに先住民泰雅族の人々、上流で水門の見張りをする日本兵が皆渓流に流され、お爺さんが見張り番をする砂防ダムが彼らの黄泉路への最初の通過点となりました。台風が去った後、お爺さんが長い竹竿で死体を引き上げ、官庁の検死を待っている間、そのカッコよさに憧れ、亡くなった1人の日本兵の腰に差した日本刀を取っておきました。

あの日本刀は張家の家庭内紛争を終わらせる秘密の兵器だったそうです。家の掟を破る人がいたらそれを出すみたいな感じで、お爺さんがそれをベッドサイドに置きます。母親が嫁に来た時、ある日お爺さんと父親が激しく争い、お爺さんがあの日本刀を出して父親に向けて切り付けようとしました。それ以降、母親はどうしてもあの日本刀を屋外のトイレに持っていくことにしました。トイレの悪臭で殺伐さを抑えると言ったのです。。

ある日、遊びにきた2番目のおじさんがあの三尺の日本刀を持って帰りました。20代前半の彼が得意げに笑いながら長い日本刀を携え、川床の岩の上を闊歩する姿はヒーローを思わせる格好良さです。しかし、母親はそうは思わず、大手を振って歩く弟の後ろ姿をじっと見て頻りに首を振りました。

案の定、人を流血させた日本刀は血気盛んな若者の手に渡ると、まるで火山に油を注ぐようでした。母方のお祖母さんが飼っている豚8匹皆皮膚に腫物の疔ができ、お祖母さんも病気で入院しました。山の人間は災厄が特に気になり、母親は良心が咎めて即座日本刀を実家から家に持って帰りました。

それ以降、母親はあの日本刀をずっと気になり、人殺しの凶器のように憎みます。台風で一晩中雨風が激しく吹き荒らした翌日の朝、渓流の水が滔々と流れ、順泰は日本刀「放逐」の任務実行を母親から頼まれました。屋外の便所から取り出し、ゴブレットいっぱい載せたトレーを持つように、日本刀を横にして両手で持ちます。8才の男の子にとって、気に入るというよりも、刀の形が気になるのです。順泰は注意深く上のダムの近くまで階段を登り、そこに立って首切りになった気分で深呼吸し、少し逡巡して手を引っ込め、中身をしっかり確かめたかったが、内心の恐怖の方がずっと大きく、滔々と流れる渓流を見つめ、力いっぱいで上に向けて投げ出し、日本刀は放物線を描くように落ち、20年前に辿り着くべき場所へと流されていきました。