宜蘭は台湾で降水量と湿気が最も多い地域で、洗濯物を干すのは母親にとって大変頭の痛いことのはずだが、そうではありませんでした。

水頭で洗濯物を干すには、風吹き、岩焼き、乾燥の3つの方法があります。

水頭の家は電力会社の古い倉庫を利用しており、日本時代から国民政府時代までそのまま残されてきました。細長い作りで屋根の部分が長く続き、一家6人分の洗濯物を竹竿に通して干すのに十分な余裕があります。爽やかな風が頻繁に吹き抜け、家の裏の竹々が風に揺られます。求愛するオスゼミの鳴き声が真夏の季節に響き渡る中、あっという間に母親はもう洗濯物を取り込んでしまいます。

風は家の左側の鉄道トンネルから吹いてきます。山の木々は雨露の恵みを受け、その余分の水はトンネルがざるのような働きをし、異物を濾過して水が枕木とレールに滴り落ちます。トンネル全体が冷却パイプのように、一方から熱風を吹き込み、もう一方から家の方に涼しい風を送ってくれます。夏場では、この心地よい風によって洗濯物はあっという間に乾きます。

「5月は雨が多く土が乾かず、6月は荒れ地が自然発火するくらい灼熱だ」と母親が言っていました。真夏の河原の石は熱々になり、その自然の熱エネルギーを使わないのはもったいないことでしょう。砂防ダムの近くで洗濯を終えた母親は、洗濯物を大きな石の上に広げて太陽光で乾かします。「お父さんのシャツ一枚を伸ばしても十分に余裕のある石が河原には山ほどあるのよ」と、母親は語っていました。

冬になると、トンネルからの涼しい風が消え、河原の石も冷たくなります。濡れた洗濯物は毎日出るため、それを乾燥させるために発電所で列を並ぶしかありません。

父親が勤務していた圓山発電所は、水力を利用してタービンを回す水力発電所で、その中から熱風を出す2つの大きな円筒型の放熱口は天送埤と清水湖地域の人々が共用する乾燥機みたいな存在です。放熱口が限られていたため、みんな順番に並び、利用していました。冬の洗濯物に関しては「お父さんが発電所に持っていってくれれば乾かないことはない」と母親は言っていました。

発電所の放熱口の利用は日本時代から資源を地元に還元する手段として初めて行われていました。濡れた洗濯物の他にも、干し大根などの干し野菜や、ソーセージ、鴨肉の燻製、ポークジャーキーなどがここで温かく香り漂っていました。